[Blog]愛するよりも愛される恋愛を

愛したい派?愛されたい派?若かりし頃はそんな質問をしたりされたりしてきたものだ。20代の頃は愛したい派と答えていたわたしも、30代になり逆転した。いや、むしろ心の底から愛してくれる人に出会えた、だからこそかもしれない。


 

|一方的な無償の愛をモットーにしていた20代

長女だけど長男気質もあって、昔から甘えることが苦手で強気な性格。女子校育ちのせいか男性を見る目があまりなく、過去の人たちには申し訳ないけれど、かつての恋愛はあまり良いものと言えたものじゃなかった(と思う)。

過去の恋愛ではとにかく異性に尽くすことをモットーに、相手に嫌われないように何かと取り繕っていた自分がいたことをまずここで恥じたい。異性に尽くすタイプの女(ここではあえて「女」と書かせていただきます)になってしまった理由を自分なりに考察してみた。それはきっと小中高とカトリックの教育を受けたなかで、知らず知らずのうちに染み付いてしまっていた「無償の愛」という考えに影響を受けていたから(だろう)。カトリックの学校に通っていた人には馴染み深い話だとはおもうのだけれど、読んで字のごとく「見返りを求めることなく無償の愛で人に尽くしなさい」というのが聖書の教えであり母校の教えでもあった。こっち系の学校に進学していない人のために簡単に説明しておくと、クリスチャンには2パターンあって、カトリックは聖母マリア様を信仰するタイプ、プロテスタントはイエスキリストを信仰するタイプ。信仰するタイプというか宗派の違いというか。母校はカトリックだったため聖母マリア様派の教育を受けてきたわけで、そのなかで女性として〜みたいなところの土台がそこで培われてしまったってわけ。もちろんわたしは無宗教だし信者ではないけれどこの考えは個人的には嫌いではなかったため学校を卒業した後もこの考えが強くマインドに根付いていたのかしらと今となっては思う。あ、付け加えておくとスピリチュアル的な話をしたいわけではなく、わたしの生い立ちを話すとこうなっちゃったということだけご理解くださいね(笑)

|見返りを求めないことが愛だと思っていた

さて、そんなこんなで「尽くしちゃん」としての20代を過ごしてきたわけなのですが、振り返ってみると当時は相手に合わせること、相手を居心地良くさせること、怒らないこと、わがままを言わないことが一番良いことだと信じていたし、それが無償の愛だ!と思っていたから、相手に嫌われないようにするために見返りを一切求めないスタンスでずっと歩んできました。そしてちょうどそこに合わさってきたのが、わたしが長男気質の長女であるという点。昔から、長女なんだから、お姉ちゃんなんだからと言われながら育ってきた自分にとっては、わがままの申し出方がわからない、異性への甘えかたが分からないという点も、幸か不幸か「見返りを求めない」スタンスにマッチしてしまい愛されるよりも愛する恋愛を歩んで行くことになったのです。

そうしているうちに一体何が起こったのか。お分かりの通り、浮気だの、突然別れを告げられるだの、そんな感じのことが色々ありましたね。わたしは一度も裏切ったこともないし嫌われるようなこともしていないのに、なんでこんなにも傷つけられないといけないんだと悲しみと怒りに沈んだことも。さらに20代後半は結構トリッキーで、異性には出会うけどお付き合いに至らず、がっかりさせられたことも多々ありました。

|彼に愛されていると実感できる恋愛のあたたかさ

冒頭で30代になってから考えが逆転したと言ったのですが、それは30代と言う年齢を迎えたからではなくて自分の環境を変えたから。そのタイミングがたまたま30歳だったということ。そして、出会った相手(今の彼)が、今までに出会った男性とは正反対のタイプだったということ(環境が変わり自分が変わったことで、今までの私なら恋愛対象に入れていなかった彼を、恋愛対象として見ることができたことも大きい)。日本からシンガポールに身を移したとき(いや、移す前から)励ましてくれたり、家探しや携帯電話の手続きなど、身の回りのことを助けてくれたのが彼。今まで「人に頼らない、自分のことは自分で」をポリシーとした長男気質の長女として生きてきた自分にとっては(日本だと言葉も通じるし、誰かの助けを借りなくても凛と生きてこれたんですよ)、ゼロから100まで誰かに助けてもらったり頼れる相手がいることのあたたかさのようなものを初めて感じ、心の鎖がゆっくりとほぐれていったような、そんな感覚を味わいました。いわゆる「わたしも甘えていいんだ。彼にお願いしてもいいんだ」という感覚。それでもやっぱり自らお願いを申し出るのに気が引けることもたくさんあったりしたけれど、それすらをも汲み取って、彼から「これも必要だよね、あれもやっておくね」なんて先回りで言ってもらえることで、ずいぶんと心が楽になったことを覚えています。

そして、そんなふうに頼れば頼るほど20代の頃には想像もしていなかった知らない自分の姿に気づいたり、二人の恋愛の形が少しずつ造られていくことに自分のことながらびっくりもしました。人って変われるんだ。そう強く思いました。彼に愛されていると実感できた恋愛もこれが初めてだったのです。

|一方通行の愛情は、愛情ではない

私は彼のことが大好き。だから愛されるよりも愛したいし、無償の愛で尽くすし、我慢もする。そんなスタンスでいた20代の恋愛を振り返ってみると、私がしていたことって本当に愛だったのかな?と思ったりします。自分の意見はあまり言わなかったし、とにかく我慢ばかりしていた。相手のため、と思ってする我慢やその努力は愛情なのでしょうか?自分を苦しめてまで、自分に嘘をついてまで我慢する先には一体何があるのか。自分が愛だと思っていたことが本当はただの我慢で、彼にとってみてもその我慢や努力は好都合であり、愛情として認識されていない。そうなると、想像できる結末は一つです。

愛される恋愛というのはなにも「自分は彼のことを愛さない。勝手に相手が愛してくれる」ということではなく、一方通行ではないということ。我慢のしあいっこはなし。彼からの愛情をしっかりと感じながら彼に愛情を注げること、さらにその愛がきちんと愛情として彼に届く恋愛が、私なりに思う愛される恋愛の定義。

ここで気をつけてほしいのが、メディアなどでもてはやされている「愛され女子になるための○○テク」とかいうHOW TOに惑わされないこと。前述の通り、我慢や努力は愛情として認識されなければ意味がありません。愛され女子になるためのHOW TOに効果があるのなら、今ごろ、世界の全女性が結婚しているはず。愛され女子になるためのテクをGoogleで探す前に、自分はどうありたいのか、彼は何を求めているのか、それを知ることが先手です。そうでなければ、彼もあなたにどんな形の愛情を与えていいのかわからないから。

|しあわせのかたちは人それぞれ。でもフェアな恋愛を

私がシンガポールに身を移したとき、かつての長男気質の長女である私は、そこにはいなかったと思います。心に鎧をつけていないシンプルな姿。だからこそ助けられることや、お願いすることにも心から感謝することができた。つまり、愛される恋愛をするためには、プライドや意地を捨てて、自分に素直になることが一番だと知りました。

せっかく女性として生まれてきたし、しあわせになるために生まれてきたのだから、両親が与えてくれた愛情と同じくらい、むしろそれ以上の愛情を注いでくれる人との恋愛に出逢うべきだと思います。

尽くすことや我慢すること、期待しないことは必ずしも愛だとは限らない。高価なものを与えたり与えてもらったりすることが愛情の形だと思う人もいれば、モノよりも一緒に過ごす時間が愛情の形だと思う人もいる。束縛が愛情だと答える人もいれば、それは愛情ではないと答える人もいる。愛とは、相手に愛だと感じてもらえてこそ愛情として受け入れられるもの。だからこそ、相手を知って自分を知ることが一方通行の恋愛にならないための一つの手段なのだと思います。もちろん今でも無償の愛のスタンスで彼と向き合ってはいるけれど、昔と変わったことは、彼も無償の愛のスタンスでいてくれると言うこと。何事もバランスが大事。フェアでないといけないと知りました。

素直になる、相手を知る、我慢しない。まずはそこから初めてみて。何か少しでも変わることがあるかも。